こんにちは、ぽよです。
こちらの続きです。
子どもの頃は母に褒めてもらえることをするのが『良いこと』だと思っていました。
母に教えられるがまま正座して手を合わせたり、お経を読む練習をしたり。
そもそもそれが普通のことかどうかすら考えなかったと思います。
母はいつも『功徳があるよ』と言って褒めました。
子どもの時は、『良いことが起きるために、悪いことが起きないように、なんでもうまくいくように』という理由で母に『一生懸命信心しなさい』と教えられました。
『ふ〜ん、そうなんだ。お母さん褒めてくれるし頑張ろう。』
ぐらいにしか考えず、言われるがまま『勤行』(お経を読むこと)ができるまでに成長しました。
月に1回ほど母に連れられてお寺での集まりにも参加していました。
そして建物に入ると中で会ったおばさんに『偉いね〜』と言われました。
何がかはわからなかったけど、子どもの時はここにちゃんと来ることは『偉い』ことなんだとシンプルに考えていました。
今思うと、母が子どもをいつもちゃんと連れて来ることに対するねぎらいの意味合いがあったのかなと思います。
家族や子ども、みんなで信仰をしていることが『偉い』、家族や子どもを信仰させられないでいることは『頑張ってない』みたいな雰囲気がありました。
そして少しずつ家での勤行やお寺に行くことは、最初は『出来たら褒めてくれること』だったのが、年齢が上がるにつれて『しないと怒られること』になっていきました。

子どもなので長時間正座することもしんどかったし、それに時間を30分ほど使うことは子どもにとっては遊ぶ時間が減るのでしたくないと思う日も当然ありました。
学校に行く前にも必ず勤行していかなければならず、時間がないという時も半分だけでもしなさいと言われました。
母は信仰心が強かったので、もしかすると本当にわたしたちきょうだいに幸せを願って信仰を勧めていたのかもしれませんが、今はそれはただの押しつけだと思います。
ちゃんと毎日しないと怒られるようになっていき、少しずつ心の中で『嫌だ』『なんでうちだけ?』という気持ちが芽生えていきました。
成長するにつれ、友達からこんな話は聞いたことがないなと、うちだけなのかもしれないということは感じていました。
でもわたしは長女でありどちらかといえば真面目で怒られることは避けるようなタイプだったので、こっそり色々思いつつも母に従っていた小学生時代でした。